原文で20作品以上の古典文学を読破した主婦が語る疫病の過去
こんにちは。サンキュ!STYLEライターのdanngoです。
新型コロナ流行がなかなか落ち着かない昨今、精神的にまいっている人も多いかもしれません。
人類の歴史は常に疫病との戦いでした。日本においても例外ではありません。
古い時代に日本人が疫病とどう向き合ったか、古典文学から知ることのできる情報をいくつか書いてみようと思います。
『大鏡』
藤原道長を中心とする平安時代の貴族社会を描いた歴史物語が『大鏡』です。
天皇家や藤原氏の歴史、道長の栄華について記述があり、その中には疫病の記録も残ります。
特にひどかったのが、994年から995年にかけての天然痘の流行。
「大臣や公卿が数多く死に、それ以下の四位・五位の身分の人達は数を把握できないほど死んだ」といったことが書かれています。
実際には、大臣・公卿といった三位以上の高官は七人、四位七人、五位五十四人、六位以下は数え切れないほどの死者を出したようです。
大臣クラスの人々が相次いで死に、当時の政治のトップにいた藤原道隆も死んだことで道長が政権をつかむチャンスを得ます。
『大鏡』の作者は道長の幸運をたたえ、政治のトップに立つ宿縁があったと考えているらしいです。
注釈によれば、当時天然痘の流行サイクルは三十年ほど。
974年にも天然痘は大流行し、花のように美しかったとされる貴公子、藤原挙賢・義孝兄弟が同じ日に死んだことも記されます。
母親の悲嘆はすさまじかったようで、義孝の「死んでも生き返るから死後に行う作法はしないでほしい」という遺言にも気が回らなかったほどでした。
義孝は死後、僧の夢に現れて「自分は極楽に往生したから嘆き悲しむ必要はない」という趣旨の歌を詠んだとされます。
疫病による死の悲しみの中で救いとなったのは、「極楽往生」という仏教的な思想だったのです。
『蜻蛉日記』
974年の天然痘大流行の年、感染したけれども死に至らなかった例を記したのが『蜻蛉日記』。
天然痘の致死率はウイルスによってまちまちですが、20~50%くらいだったそうです。
死に至らず回復する人も多くいました。
『蜻蛉日記』の作者藤原道綱母の息子である道綱は、八月二十日頃に発症し重症化したようですが、九月一日に治ったとあります。
離れて暮らしている道綱の父、兼家に手紙で知らせたところそっけない返事があったとか。
後日、「こちらの家の人達はみな治ったが、そちらはどうか」などと詳細な手紙があったと書かれているので、最初の手紙の時には兼家の本妻周辺の人々が罹患し余裕がなかったのかもしれません。
作者は挙賢・義孝兄弟の死にもふれ、「世間で大騒ぎしている」と書いた後「治った我が子はとてつもない幸運だった」と振り返っています。
『方丈記』
天災による飢饉と疫病で壊滅状態だった都の様子を詳細に記しているのが『方丈記』。
養和の飢饉という、記録的な被害を起こした飢饉が1181年から1182年まで続き、1182年に疫病も流行。
京都市中、数えられるだけでも4万2千3百あまりの死体があったというほどたくさんの死者を出しました。
田舎の農民は田畑を捨てて山に入り穀物が京都市中に供給されず、食料の価格が高騰、逆に骨董品などの価値は暴落。
薪の供給までもがストップしたので、家を壊して売る人、はては古寺の木まで売る人もいたそうです。
注目すべきは「とても心を打つこともありました」という意味の文から続く部分。
夫婦の場合、必ず相手への愛情が深い方から先に死んだというのです。
親子なら、親が先に死んだとのこと。
その理由は、たまに手に入った食料を先に相手に食べさせたからだといいます。
隆暁法印という僧が、埋葬もままならず道などにあふれた死体の額に梵語の「阿」という字を書き仏縁を結ばせたという記述もありました。
先に飢饉があったという点は異なりますが、去年コロナで物資不足となり混乱していた状況と重なり考えさせられるものがあります。
それでも救いとなったのは親族間の愛情と極楽往生を願う信仰でした。
現代は医療が発達しワクチンも短期間で製造されますが、最も大事なのは心の状態なのではないかと、古典文学を通して私は思うのです。
◆記事を書いたのは・・・danngo
中高国語科教員免許を持つ、活字中毒気味のアラフォー。高学歴・高血糖・高齢出産の三高ライター。「家事は化学、子育ては文学」を信条としている。