寺を見上げると思い出す……図工の先生の一言による気づきとは
こんにちは。サンキュ!STYLEライターのdanngoです。
もともと神社仏閣が好きな私、天気の良い日は散歩コースの中に近所の寺や神社を組み入れるほど。
今回は、寺に行ってふと建物を見上げると思い出す、小学生の図工の先生の一言からえられた気づきについてお話しします。
どう考えても失敗だった寺の絵
私は図工の時間が苦手で、写生も得意ではありませんでした。
1年生の時の担任の先生が絵に厳しく、「レンガは1枚1枚色を変えてぬりなさい」と指導するほどでしたから。
小学5年生になると、図工は図工専門の先生がみてくれることになりました。
浅草寺のデッサンをした時のことです。
うっかり勢い余って、屋根を実際に見えるより大きく描いてしまいました。
思いきり下からあおったかのような、アンバランスな構図に。
とはいえ時間も修正する技術も持ち合わせていない私、その後その構図のまま色をつけて提出。
次の週、図工の先生は私を呼んでこう言ったのです。
「君の絵、すごく良かったから区の写生コンクールに出すね」
私は頭の中がはてなマークになり、
「何を言っているの?この大失敗の下手くそな絵を!やめてください恥をかくから!」
心の中でこう言いながら先生の目を見ました。
先生は私の心の叫びになど気づかない様子で大きすぎる屋根を指さし、
「この屋根がいいよね」
そう一言つぶやいて大事そうに絵をしまいました。
案の定、コンクールでは箸にも棒にもかからなかったようで何の賞もなかったのですが、先生の言葉だけは私の心にいつまでも残りました。
大人の価値観に子どもをあてはめていないか
小学校の図工では多かれ少なかれ写生の時間があります。
そこではたいてい、実物にそっくりの絵が評価されるはずです。
上手な絵=実物に似ている絵、という価値観がすでにできあがっているわけです。
立体感や遠近感などがうまく表現できない子は、絵が下手なのだと落ち込んでしまうかもしれません。
幼稚園児に絵を描かせると、人物が全員正面を向いて横並びになっていたり、テーブルがただの四角形だったり、湯のみが倒れたかのような姿で描かれていたりします。
中学時代の美術の先生いわく、「幼い子どもは自分の頭の中にある最も特徴的な物体の姿を組み合わせて絵を描く」ということらしいです。
いわば抽象画の世界。
そういった絵が絶対にダメなのかというと、そうは言いきれません。
絵は本来、ただの記号にすぎないからです。
何かの概念を誰かに伝えたい時、概念のままではとらえてもらうことができないので別の形に置きかえる、その置きかえたものが記号。
「リンゴ」という概念を伝えたいなら、言葉にしてもいいし手話でもいいし、円に直線を1本入れた簡単な絵でもよく、通じるのなら赤い色で伝えてもいいわけです。
精巧な静物画のようなクオリティの高さの絵が必要とは言えないでしょう。
絵の本来の目的は「伝えること」で精密さや正確さは重要でなかったはずなのに、大人は無意識のうちに多くの要素を子ども達に要求していたのではないでしょうか。
芸術という普遍的な基準がないようなものでさえそうなのですから、きっと他にも価値観の押しつけはあるはずです。
子どものやったことに対して良いとか悪いとかすぐに言うのではなくて、時には少しあいまいにしておくことも大事なのではないかとふと思いました。
極論ですが、「写真にしか見えない絵」が美しいというのなら写真を撮ってしまった方が効率的だと言えなくもないのです。
気に入った部分を誇張したり、逆に気に入らない部分を省略したりと自分のものさしで表現できるのが絵画の良さでもあります。
図工の先生はそういったことを伝えたくて私の絵をほめてくれたのではないかと、子どもを持つ身になってからわかった気がするのです。
◆記事を書いたのは・・・danngo
中高国語科教員免許を持つ、活字中毒気味のアラフォー。高学歴・高血糖・高齢出産の三高ライター。「家事は化学、子育ては文学」を信条としている。