「不謹慎」「偽善者」災害時にあふれる中傷コメントへの考えかた
こんにちは。サンキュ!STYLEライターのdanngoです。
2024年は元日から大地震が起こり、不安な日々が続いています。
いっぽうで、全く揺れを感じなかった地域もあり日本列島内でも災害への関心に温度差がありました。
そんな中、SNSで多く見られたのが「不謹慎」「偽善者」といった中傷の言葉。この反応をどう考えるべきか考察します。
当たり前の日常を送ることが「不謹慎」なのか
SNSの1つ「スレッズ」では「夕飯の写真や猫の写真をアップしただけで『不謹慎』と叩かれた」という嘆きの声が多くみられました。
通常であれば、夕飯の写真であれ猫の写真であれ、それをSNSにあげることで迷惑をかけることは考えにくいですよね。
ただ、被害にあわれた人々は満足に夕飯も食べられず飼い猫とはぐれてしまっている可能性もあります。
そういった人の心を刺激するから「不謹慎」となるという理屈のようです。
本当にそうなのでしょうか。
私が東日本大震災で不安な状況の中、一番つらかったのが「テレビのバラエティ番組が消えた」ということでした。
メディアから日常が失われるというのは、想像以上に心をえぐります。
一部の人が苦しんでいるからといって日本人全員が一緒に苦しむ必要はなく、むしろ可能な範囲で日常を維持するほうがいいと思うのです。
寄付を公表すれば「偽善者」になるのか
一般の人が「どこそこに寄付をしました」と書いた投稿には、「偽善者。いいねが欲しいの?寄付するなら誰にも言わずこっそりやればいいじゃない」といった内容の書き込みが。
寄付をしたことを公表すると「偽善者」になるのはなぜでしょう。
それが周囲の評価を期待しているから、ということなのでしょうか。
いいことをしたらほめられるのは自然なことですし、ほめられたいという気持ちも自然なものです。
寄付していないのに寄付したと言えば偽善でしょうが、実際に寄付をしたのだからその行為そのものは「善」だと思うのです。
たとえ下心があったとしても、やらないよりはいいのではないかと。
また、公表することで寄付するかどうか迷っている人の背中を押せるのであれば、けっして悪いことだとは思えません。
中傷する人々の心理を推察すると
どうやら中傷する人々は被災地の人々ではなくむしろ関係のない人々なのではないかと、文面を見て思いました。
被災地の人々は、他人を攻撃することより自分を守ることに忙しいはずですから。
となると、彼らの心にひそむ闇に気づきます。
おいしそうな夕飯やかわいい猫、そういった幸せをねたむ満たされない感情。
寄付したいけれどできない心的な、もしくは金銭的な余裕のなさ。
そういった状況で「自分はダメだ」と落ち込まないようにするために、「悪いのは向こうだ」と攻撃してしまうのではないでしょうか。
要するに、自衛のための攻撃なのです。
そう考えると、少しふびんに思えてきます。
自分の心を守るためにできること
相手が自分を守るために攻撃してくるのなら、攻撃し返すのは得策ではありませんよね。
もし今後、災害時にSNSで不当な非難を受けたらどうすればいいのでしょうか。もしくは非難されないようにできることはないのでしょうか。
・SNSの投稿をやめる
→離れれば安全
・発信をひかえめにする
→目立たなければ攻撃されにくい
・先に自分で言ってしまう
→「不謹慎かもしれませんが」などと自分で言えば攻撃されにくい
・攻撃されたら謝りつつ弁解する
→相手は誤解をしていることも。謝りつつもひかえめに弁解して自分を守りたい
どんなときにも、難癖をつける人はいるというあきらめを持つことも大事です。
全ての人に好かれることを目指さなくていいと思えたら、知らない人の言葉に必要以上に傷つくこともなくなっていくでしょう。
◆記事を書いたのは・・・danngo
中高国語科教員免許を持つ、アラフォー主婦。教職課程で心理学の勉強をしたり、中高生の悩み相談を聞いたりはしたものの、それが実生活に役立っているかは少々疑問。小学生2人の子育てに奮闘中。