性教育は違和感だらけ!小学生の母が本質と解決策をさぐる
こんにちは。サンキュ!STYLEライターのdanngoです。
小学生2人の子を持ち、性教育が気になりだした今日この頃の私。
でも巷にあふれている性教育関連本を斜め読みすると、どうも違和感を覚えてしまうのです。
内省の結果導かれた性の本質、性教育問題への自分なりの答えを語ります。
性教育をためらう気持ちも理解できる
本の中には「性教育を避けているとこんな恐ろしいことがありますよ」といきなり性教育を強くすすめるメッセージが書かれているものもあります。
危機感を覚える人もいるでしょうが、気分の良いものではないはず。
考えるに、親が性教育に積極的になれないのにはいくつかの理由があります。
・性に関するものは神聖なものだと考えているから
・子どもにはいつまでも子どもらしくいてほしいから
・堕胎や性感染症などネガティブな要素が多いから
・自分が性行為を経験したことをさとられるのが恥ずかしいから
・細かいことを聞かれると充分に答えられないから
人によっては、他の理由があるかもしれません。
こういった状況で、保護者をなかばおどすようにすることにどれほどの意味があるのか疑問。
教えたくないという気持ちにもう少しよりそってほしいとも思います。
性行為は愛でなく性欲によるもの
性行為に関して、「愛があるからこそ」と強調している本にも嫌気がさしてきます。
逆に言うなら、「交際しているのに性行為がないのは愛のない証拠」という解釈が可能だからです。
実際にそういったことで悩む女友達もいました。
人を本質的に性行為へと導くのは性欲だと思うのです。
性欲と言うといやらしいイメージがあるかもしれませんが、交配する生物には必要なもの。
人間のように知能が発達していない魚類などは、求愛→産卵→精子の放出といった一連の行動がかなりシステマチックにおこなわれると生物の時間に習いました。
頭で考えるのではなく、体が勝手に動くらしいです。
その本能的な部分が、人間においては性欲という形で残されているだけのこと。
性欲=効率的に繁殖をおこなうために必要なシステム、ととらえることはできないでしょうか。
ついでに言うと、哺乳類が交配する場合は基本的に「交尾」という言葉を使うのに、人間だけ「性行為」「セックス」などと呼ぶのも好きではありません。
人間だけが特別というおごりを表現しているように思えてならないのです。
そもそもなぜオスとメスがいるのか
オスやメスといった区別がなければ、性差別など存在せず世界はもっと平和になるはず。
「オスとメスがいないと子孫は残せない」と思うかもしれませんが本当にそうでしょうか。
ゾウリムシを思い出してください。
細胞分裂で増えることができる生き物であり、オスとメスの区別はありません。
わざわざ交配する必要がないので、単純に考えればとても効率的です。
オスメスの区別が生まれたのは、生き残りの戦略。
同じ植物で、少し離れた場所にある個体Aと個体B。
別の場所で繁殖したことでほんのわずかだけれど特性の違いが生まれました。
Aは風に強く、Bは日照りに強かったとします。
Aは考えました、「Bの特性を持つ子孫をつくれば環境が変わっても生き残る可能性が高くなる」。
そこでオスという「遺伝子の運び屋」を生み出し、オスでないものはメスとなったわけです。
こういったことを教えていく必要性もあるのではないかと思います。
快楽としての性も伝えていきたい
塾講師をしていた頃、理科の授業で生殖について教えることがありました。
卵子や精子の形を黒板に書いて受精について説明し、「受精にいたる前に必要なことがあるのだけれど、話してもいい?」と聞くと女生徒の1人が強く首を振ったのです。
女生徒にとっては、不潔、気持ちが悪いなどといったネガティブなイメージが強かったのでしょうね。
私自身が受けた性教育でも、堕胎の方法や性感染症の種類ばかり詳しく説明されて気分が悪くなった記憶があります。
個人差は大きいですが、性行為というのは子どもをつくるための義務というより楽しいからするものではないでしょうか。
リスクを避けるためにネガティブなことを教えがちになるのはわかります。
それでも、快楽としての性について教えてはいけないということにはなりません。
快楽という要素を語るにおいてはじめて、愛という言葉を使っていいのかなとも思います。
私の考えは、一般的な性教育の本にあることとは大きく違うでしょう。
客観的な事実とその捉え方は別のもの。
批判はあるかもしれませんが、私はこの考えでいいと思うのです。
◆記事を書いたのは・・・danngo
中高国語科教員免許を持つ、活字中毒気味のアラフォー。高学歴・高血糖・高齢出産の三高ライター。「家事は化学、子育ては文学」を信条としている。