【大正・昭和初期】ワンオペとは無縁!豪胆すぎたひいばあちゃんエピソード

2023/08/04
  • 二児の母。塾講師、学校教師の経験あり。甘いものと日本の古いものをこよなく愛しております。もっと見る>>

こんにちは。サンキュ!STYLEライターのdanngoです。
大正時代に祖父を含む6人の子どもを出産し、曾祖父早逝後も商売を続けながら女手ひとつで5人を育て上げた曾祖母。
料亭女将として働くかたわら、それ以外の商売もしていたというのですから驚きです。
いったいどうやってと疑問でしたが、親や親戚から聞いた曾祖母の子育ての実態は豪胆すぎるの一言でした。

それぞれの子どもに別の家と乳母をつける

一番「ありえない」と驚いたのは、5人の子どもそれぞれに家1つずつ、乳母を1人ずつつけていたということ。
「それって、家の敷地に離れみたいな小屋を建てたってこと?」と私が聞くと、「ううん、もっとちゃんとした家」との答え。

もはや、一緒に住んでもいないわけですか……。
子育ては全て乳母まかせだったというわけです。なるほど、複数の商売をかかえながら仕事に専念できた理由がわかりました。
その影響なのか、祖父は「家族=使用人」という感覚がいつまでも抜けず何をされても「ありがとう」とはけっして言いませんでした。
全て「ご苦労さん」で通していたので、私は祖父の「ありがとう」を聞いたことがありません。

生意気すぎる「円タク」エピソード

祖父が幼稚園児だった頃の話です。
毎日乳母に付き添われて行く幼稚園への交通手段は「円タク」というもの。
「一円タクシー」の略で、当時1円均一で市内を走っていたタクシーのこと。
大正時代の1円は数千円の価値があったそうですから、普段の足にするのはぜいたくです。

少しくらい歩けばいいし、遠いなら公共交通機関を使えばいいと思いますよね。
実は、1回だけ乳母が必死に探しても円タクがつかまらず、仕方がないのでバスに乗って幼稚園に行ったことがあったそうなのです。
祖父はその日、あまりの屈辱に耐えきれず帰宅してから母親である曾祖母のもとに行き洗いざらい報告したのだとか。
かわいそうなことに、こっぴどく怒られたのは乳母のほうだったそうです。
私が曾祖母の立場だったら、「生意気なこと言わないの。幼稚園くらい歩いて行けばいいのよ」と突き放すと思いますが。

子どもの生死に関心なし

祖父が成人してまもない頃、太平洋戦争が始まりました。
4男1女という兄弟構成のため、祖父と大おじの4人はみな戦争へ。
終戦後、3人の大おじはすぐ帰ってきましたが祖父の帰還は遅れたそう。
「もう○○(祖父の名)はあかんと思っとりましたんや」などと話していたのをうっすら覚えています。

ずいぶんとあっけらかんとした言い方。
とはいえ立派な守り刀を持たせていたとのことで、祖父は許可を得てその刀を大事に保管していました。

そう言えば、不思議に思いませんでしたか?冒頭に6人出産したとあるのに育てたのは5人であることに。
曾祖父の墓が薬師寺の近くにありよく墓参りをしたのですが、大きな墓石の斜め右側には小さなお地蔵さんのようなものが。
「これは何?」と聞くと「それは赤ちゃんの墓」と聞かされ、「かわいそうに、病気で死んだのかな」と思っていました。

大人になって聞いた真相は、乳母があやまって落下させたという話。
曾祖母は「乳母が落としましたんや」とさらっと話していたようです。曾祖母らしい……。

ヘビースモーカーだった曾祖母。幼い私が「それ、おいしいの?」と聞くと「おいしいもんやない」と即答していたことを妙に覚えています。

ここには書けないこともありますが、とにかく生き方が豪快でかっこよかった曾祖母。
103歳まで健在だった曾祖母の家に遊びに行くと、お手伝いさんを遠ざけて自室でお茶を飲みながらたばこをふかし、正座したまま母を相手に長話するのがお決まりでした。
立ち上がると背は母より高く、肩幅も広くてがっちりしていて、目には裏玄関に置いてあるワシの剝製にも似た鋭さが。

日々の雑事に追われている私は、到底まねできないけれどある意味面白い曾祖母の人生をうらやましく思う時もあるのです。

◆記事を書いたのは・・・danngo
料亭女将のDNAを受け継ぐアラフォー。料理上手ではなく、おいしいものを嗅ぎ分ける能力のみに特化。魚介類と甘いものに目がありません。お酒に弱いけれど日本酒が好き。食生活アドバイザー(R)の資格を取得。

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