2019/03/11 23:33



こんばんは。


3月。
駆け足のように、、、毎日が過ぎていきます。


19-03-05-11-37-17-492_photo.jpg


先日の良く晴れた日、次女の自転車練習に
近くの広場へ。
そこは中学校の隣で、アリーナで卒業式の
練習中だったらしく、歌が聞こえてきました。


感動しますよね、、、あせあせ(飛び散る汗)
全く関係ないのに^^;


コドモ達がこの場に立つとき、
「楽しかったな、、、」と思えるような
学生時代を過ごしてほしいな、と思いますかわいい



★★★



今日はイチオシに参加します。


『落ち込んだ時の立ち直り方』


昔は落ち込んだり、心がザワザワした時は
飲みに行ったり、甘いもの食べたり、
ただひたすら聞いてもらったり。
そうやって立ち直っていました。
どちらかというと、ネガティブな人なので
落ち込むことも多かったな。


なんだけど。


今改めて考えてみると、
最近落ち込むことってあんまりないな、と。


落ち込むようなことが起こってない
というわけでもないけれど
あまりというか、ほとんど落ち込むことはない。


変わったことは、、、


ワタシ自身の考え方ですぴかぴか(新しい)


しんどいことがあっても
今はそういう時。って思えるようになった。
あきらめとかじゃなくて、
自分自身でどうにもならないことは
流れに身を任せるしかないと。



ついつい人と比べて落ち込むこともあったけど
そもそも、比べることに何の意味もない、
人の価値観の中で生きるより
自分の価値観で生きていきたいと
思ったら落ち込むこともなく。


大人なので、場をわきまえたり、
自分勝手ではなく、きちんとした対応を
するようには心がけているけれど
自分軸がぶっとくできたんだなと思いますかわいい


でもこれはいいこともそうでないことも含め
今まであったいろんなことを経験したからこそ
芽生えた感情であって、昨日今日急にできるものではない。


これからコドモ達はいろんな壁に
ぶつかって自分の人生を歩いていきます。
コドモ達が苦しんだり悲しんだりする姿を
見るのは親としてつらいけれど、、、
なるべく口を挟まず、そっと見守り、
そっと支えられるような、、、
親になりたいと思います。





先週末、ムスメの書道教室の展示会に行ってきました。
そこで大人の生徒さんが書かれていた作品。

”笑っても 怒っても 同じ一日”


ホントそうですよねかわいい



明日もできることを精一杯☆
では。
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2019/01/22 22:42



あの日、16歳の誕生日が近かったワタシも
もうすぐ40歳になろうとしています。


阪神淡路大震災はワタシの中で根底にあり、
あの地震の恐ろしさ、悲しさ、つらさを
経験した自分は幸せなのだと
今となっては思います。


一瞬でなにもかも失う怖さに比べると、
ほとんどのことはたいしたことないし、
怖くない。
どんな状況だってありがたい。


あの日を経験した者として、
地獄を伝えるのではなく、
だからこそ今がこんなにも幸せなんだということを
伝えていかなければならないのだと思います。


あれもない。
これもない。
ないものを数えること自体が
不幸のはじまりなんですよね。。。


今ここにいること。
今ここにあるもの。
そのすべてに感謝して、、、。


この1年も前向きに、、、
がんばります。



明日もできることを精一杯☆

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2019/01/20 23:04



阪神淡路大震災から24年がたちました。


ワタシが当時住んでいたところは
かなり被害が大きかったところです。
あの日の記憶、、、綴りたいと思います。







あの日、5時46分。
ワタシを含め家族はまだ寝ていました。


ドンッ!!
という下から突き上げる衝撃とともに
寝ていたベッドは真ん中から折れ、
そばにあった本棚から大量の本が降ってきました。


それまで地震といっても
「今、揺れたよな?」
「えー!揺れてへんって!」というような地震しか
経験したことのないワタシ。
ニュースなどでもそこまでひどい地震をみたことが
なかったので、一瞬何が起こったのかわかりませんでした。


遠くから「大丈夫か!!」という父の声。
ワタシの部屋は落ちてきたものでドアがふさがれ
あけることができませんでした。
ワタシも本や本棚の下敷きで動けず。
父は部屋のドアをこじあけてワタシの無事を確認しました。
「地震や!!」


その時初めてこれが地震なんだと知ったと思います。


リビングに行くと、それはもう、、、ひどい状態で。
今でこそ、家具やモノが落ちてこないように対策を
と言われていますが、当時はそんなことまったく
してなかったので、食器は戸棚から出て割れる。
ガラスケースに入ったウイスキーも飛び出して割れる。
アップライトのピアノも前に飛んで倒れてる。
テレビやダイニングテーブルも。


なにもかもがもう、、、めちゃくちゃ。


少し明るくなって外を見た時の衝撃は、、、。


当時住んでいたのは大型のマンションで、
わが家は10階でした。
ベランダから見えた光景はきのうまでとは
全くちがって、、家や工場はべっちゃんこ。
目の前にあった高速道路が、、、倒れていました。


それまでワタシ達家族は自分の家が一番ひどいと
思っていたけどこれはただごとではないなと思いました。


たくさんの家がつぶれてて。
駅が崩れ落ちてて。


不思議と悲しいとか怖いとかいう感情はなく。
たぶん瞬間的にそういう感情にフィルターをかけたんだと思います。


ただ、「駅ってつぶれるんや、、、」
「高速道路って倒れるんや、、、」と思った記憶が。


関東や岡山に住んでいる親戚がたくさんの食料を
持ってきてくれました。
交通も寸断されているのでずいぶん長い距離を歩いて。


家は全壊で、避難所もいっぱいだったので
何日か車で寝泊まりした後、
近くに住んでいる親戚の家に避難させてもらいました。
少し離れているだけで電気がついている。
暖かい布団で寝れる。
ホントにありがたかったです。


少し落ち着いてから学校に連絡しなければと。
今みたいに携帯電話が主流の時代ではなかったあの頃。
家の電話はもちろん使えないので、
NTTの無料電話に長時間並んで電話しました。


その時、先生だったのかな、第一声が
「生きてたのね!!」


生きているのか、死んでいるのか。
生きていることが当たり前ではなかったあの時。。


通っていた高校はほとんど被害もなかったので
あと数日ではじまると。
家からは到底通えないので祖母の家にお世話になることに。
当時中学2年だった妹は、学校が半壊な上避難所で
当分どうにもならないということで母の友達の家に
お世話になり3学期の間はそちらの中学校へ行きました。
父は仕事があるので大阪でマンションを借り、
母はまだ4歳だった妹と親戚の家に。


家族はバラバラになりました。


そこからは不思議とあまり記憶がなく、
ただがむしゃらに、、、生きました。







これがワタシの1995年1月17日の記憶です。


あれから24年。
今思うこと。
次に書いてみたいと思います。


最後まで読んでくださってありがとうございました。



明日もできることを精一杯☆


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