40歳・専業主婦が長年連れ添った本とお別れする話。
個人的な思い出話を記録として。
20代半ばから30歳手前くらいの約5年間、本ばかり読んでいました。
理由は、「ヒマだったから」。
やることもなかったので、家に落ちている本を片っ端から読むことにしました。
本の虫を自称する母の本は、リビングに大量に置いてあったし、自室には買ったまま読んでない名作もあったから、読む本には困りませんでした。
母の本棚にはたくさんの村上春樹の小説がありました。
20代のヒマ極まりないわたしに、「村上ワールド」がクリティカル・ヒットしたのは、言わずもがな。
彼の小説・訳書・エッセイを読み漁り、そこから派生してロストジェネレーションの米文学、古いロシア文学……どんどん手を広げました。
(ついでにジャズまで聴くようになりました。)
そのうち自分が読めるものなら、誰が書いた小説でもよくなりました。
どちらかというと、当時のわたしは、できるだけ長編で、旧訳で、難解であるものを、好んだのかもしれません。
余るほど時間があったのです。
さらには「人生で読んでおくべき本100冊リスト」みたいなのを手に入れ、既読のもの、読了したものを「制覇」の印として蛍光ペンで塗りました。
何冊読めるのかという、己との戦いみたいな気分で始めたのですが、要はヒマだったんです。
結局、100冊中20冊も読めなかったと思うんだけど。
わたしは、心身ともに、わりに「根無し草」みたいに生きてきたように思います。
子どものころも数回住む場所が変わりましたし、ひとり上京した後も、数年間で何度か引越しをしました。
そのたびに手持ちの本は精査され、選び抜かれてきたはずなのですが、今も手元に数十冊の本が残っています。
最近、自分の居場所が欲しくて(青春)、専用ソファを買ってしまいました。(「
専業主婦、部屋が欲しい。」参照)
半分物置だった部屋にソファを持ち込んだものだから、見える床面積が激減。
ソファの前には、物・もの・モノ。
このままでは「汚部屋の引きこもり主婦」になってしまいます。
衣類や雑貨など一通り処分したら、次は自分の本に目を向けるしかなくなりました。
「にわか」ハルキストだったので、なんだかんだで一番多い村上春樹の本から整理することに。
*なぜか「ノルウェイの森」は持っていない。
「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」(文庫)と、フィッツジェラルドの邦訳2冊(文庫)。
「グレイト・ギャツビー」の訳書「愛蔵版」。
それから村上春樹訳の「おおきな木」の絵本を残して、手放すことにしました。

次に海外文学。

ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」、サリンジャー「フラニーとズーイー」、そしてフィッツジェラルド「華麗なるギャツビー」(すべて文庫)を残して、処分。
手放すスタンダールの「赤と黒」には、付箋が貼ってあります(青春)。

余談ですが「赤と黒」からわたしが学んだことは、「男はバカである」と「不倫はしないに限る」でした。
それから、少数派日本文学。

もともと冊数が少ない上に、テイストがバラバラです。
写っていませんが、わたしが唯一受け入れたエンタメ作家、森見登美彦の「四畳半神話体系」ともさようならです。
残したのは、吉本ばなな初期の作品「キッチン」と「TSUGUMI」(ハードカバー)のみ。
その他、バラバラだった本もまとめて、お別れの記念写真。
わたしは大変頭が悪いので、何度同じ小説を読んでも、物語の筋が覚えられません。
印象に残る場面はあるのですが、ストーリーを説明しろと言われたら、どれもこれも、全くできません。
(「ノルウェイの森」は通算10回は読んでると思うのですが、それでもダメです)
読んでいる途中の、物語の中に身を置いたようなライブ感や、読了後のこみ上げる感動……そんな印象だけが残り、話がすっぽり抜けるのです。
ずっと本を読むことは、「安価で壮大なマインド・トラベル」だと考えてきました。
時代を越え、場所を越え、自分をどこにだって連れて行ってくれる。
そして誰にだってなれる。
どういうストーリーで、主人公がどんな顔かたちをしていて、どのような名前を持っているのか……。
そういうのは、わたしにとっては二の次三の次。
あるいは、ほとんど意味を持たないのかもしれない。
すみません。記憶力が悪いので、内容が覚えられないだけです。
恐らく、わたしにとっての読書は「体験」なのです。
わたしは、登場人物と共に時間を過ごし、物事を疑似的に経験し、感銘を受け、異論を唱え、救われた結果、現在のような生き物になりました。(残念感)
「本」自体は、具体化した「過去の体験」でしかない。
経験は無形のものだから、本という物質がなくても、それらを通して感じ、学んだことは、わたしの中から消えないと思いました。
消えてしまうことなら、もともとわたしには必要のない情報や記憶だったのでしょう。
スッキリ暮らすために、広く暮らすために、ミニマルに暮らすために「本を捨てる」という考えは、最後の最後まで、わたしにはしっくりきませんでした。
読書を通して得たものが過去実績として(実績でありますように)、今のわたしの中に存在する。
過去の読書は、すでにわたしの一部なのです。
大切に抱えてきた本たちが、目の前から姿を消しても、読書を経て今日の自分になったことに、変わりはありません。
ほとんどの本がなくなっても、わたしはもう大丈夫。
そう思えたので、わたしは「本」そのものを手放すことにしたのだと思います。
ヒマだった約5年間は、わたしの挫折と喪失の期間(ひとりロストジェネレーション)でもありました。
本は、時間を持て余すわたしに、寄り添ってくれました。
見たくない現実を、忘れさせてもくれました。
物語はわたしにたくさんの(架空だけども)体験、そして感動を与え、その後のわたしに多大な影響を(よかれあしかれ)与えてくれました。
充実した20代を過ごした方には、読書など必要なかったのかもしれません。
ただ、当時のわたしには、彼らの助けが必要だったのです。
現在、わたしはほとんど本を読みません。
そのことに、例えば家事が終わらないとか、育児に忙しいとかという理由は、要らないと思っています。
今のわたしには、読書という、物語に浸かって異世界へ行くという行為自体が、それほど必要ではない。
それだけです。
本を読まなくても、わたしなりに現実と向き合い、生活できる。
または、主婦として、妻として母として過ごす毎日から、たくさんのなにかを学んでいる。
わたしはそれで十分なのだと。
根拠のない自信だと一蹴されるかもしれませんが、今はそう、思います。
とはいえ、いつかまた、読書が必要になる日が来るはずです。
そのときにはまた、もう一度好きな本を探せば、いいだけ。
そういう気持ちで、段ボール2箱分の本を、本日業者に渡します。
(写真にはない、育児書や漫画、実用書なども合わせると2箱)
さよなら、本たち。
今までありがとう。
例えお金になっても二束三文。
もしかしたら古すぎて古本屋に並ぶことさえないのかもしれません。
けれども、あなたたちはわたしにとって、大きな救いで、支えでした。
いまこそわかれめ
いざ、さらば。
mihoyamana