読書感想文です。
恩田陸「蜜蜂と遠雷」芳ヶ谷ピアノコンクール(国際コンクール)に出場するコンテスタント(コンクールに出る人)と、審査員、コンテスタントが師事した音楽家、家族、その他関係者をめぐる青春群像小説(ざっくり)。
ピアノ・音楽・友情・恋愛・家族エトセトラエトセトラ。
養蜂家の父と世界を回る流浪のピアニスト「風間塵(カザマ ジン)」、
かつて神童とあがめられながら、一度は表舞台から姿を消した「栄伝亜夜(エイデン アヤ)」、
名門音楽院から、容姿端麗・頭脳明晰、マルチな才能を持つ「マサル・カルロス・レヴィ・アナトール」、
以上3人の若き天才たち。
と、音大出身ではあるけども、今は一家の主でありサラリーマンである「高島明石(タカシマ アカシ)」28歳。
…。
この長くて複雑な話は、どっから作り出すんだろう?そこから
気になりました。
登場人物(多い)それぞれの人生や環境、過去、経験が、コンクールを介してそれらがどんどんリンクしていきます。
緻密、緻密です。
恩田氏といえば、「夜のピクニック」くらいしか読んだことがなく、
わたしはバカなので、話・内容を全部忘れているし、著者に関してもよく知らない。申し訳ない。
もともと音楽に詳しい方だとしても、この話を書くためには、莫大な量の情報と知識が必要なはず…。
恩田陸レベルになると、きっと優秀なスタッフが全力で取材してくれるんだろうな、才能と実績があるっていいなー、
と、勝手に思いながらググったら、着想後書き始めるまでに5年を要し、着手前後含め2006年〜2015年まで4回、ご本人が国際ピアノコンクール会場で朝から晩まで毎日ピアノ演奏を聴き続けたとのこと。(ソースはウィキペディア)いろいろすみませんでした。
純粋にこれだけのボリューム、内容、絡み合うストーリーを描けるってすごい(語彙)。
とりわけ天然天才ボーイである「風間塵」が起爆剤となり、若きコンテスタントや大人をも巻き込んで、かき乱しつつも、どんどん覚醒させていく展開は、非常におもしろ……(語彙!)
誰かしら、あるいは誰にでも、感情移入できるような気がするのは、登場人物それぞれにリアリティがあるからなんでしょうかね。自分が、誰かのどこかに重なる。度々。
同時に「天才」たちに対するピュアな憧れを、イヤミなしに感じることができます。
それには、彼らが「パーフェクトではない」ことが、影響しているのではないかと考察します。
欠点があるのではなく、違うコンテスタントが持っている「自分にはないもの」を素直に認められる能力があるところ、かな。
いや、もうその時点で超できた人じゃん。憧れというよりも尊敬かもしれない。
途中、音楽がスポーツに例えられるところがあります。
ふたつには、通ずるものがあるようです。
本来、双方芸術・表現・技術…という「枠にはめられない」ものであるはずが、一部(あるいは大部分)は一般化され、大衆化され「アトラクション」と化す。
わたしは、オリンピックで日本中が「メダルメダル」という雰囲気になるのが好きではないです。
上に書いたようにスポーツが見ている側の「娯楽」になっているようで、違和感を持つのでしょう。
熱心に観ている配偶者に言わせれば、わたしの意見などまるで的外れのようですが。
(少なくとも本書では)クラシック音楽の世界も「ポピュラリティ重視現象」が起こっているらしいです。
CDを売るための選曲、観客が求める演奏、期待や勘違いでつけられる「個性的」というレッテル…そういうのが優先されていくみたいです。オマケに、クラシック故の伝統というしがらみつき。
小説の中では、マサルが、そういう「常識」を意識的に、超越して音楽界そのものを動かしていけないかと考えているように思います。栄伝亜夜や風間塵は、また別タイプ。
芸術家であっても、売れるか売れないか(=芸術家として認められるか、業界で食っていけるか)は、多くの場合「消費者の需要次第」ですから、観衆・ファンが期待するものを無視することはできないわけです。
制限がある中でオリジナリティとか、進化とか、開拓とかを行うのは非常に難しい。
まず、その境地にたどり着けるだけで、リアル天才なんでしょうね…。
本書で言えば、そのパイオニアは「ホフマン先生」なのかしら。
長いので、一旦終わり。
多分続く。
音楽は「プレイ」
スポーツも「プレイ」
ゲームも「プレイ」
人生はRPG。ああ、僕らはプレイヤー。
リセットできないのが、もどかしくはあるけど。
mihoyamana